深田 上 免田 岡原 須恵
幻の邪馬台国・熊襲国(第16話):アナザーストーリー (5)

16.その1 九州・沖縄地方の「原=はる・ばる」の不思議

1)原=はる・ばるの地

 九州への渡来人は、大別すると、九州の北部と南部地方であったことが弥生時代の遺跡分布からわかった。縄文時代もそうであったことを拙著「縄文人は肥薩線に乗って」(熊日出版、2014年)でも明らかにしたことがある。
 天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は日向の襲國(そのくに)に渡来してきたのであるが、それは中国、呉の国からだろうと先に書いた。降臨の地(上陸の地)が、九州北部でなく、なぜ日向なのか、それは九州の襲国が中国の華南・華東地方に近く、黒潮の流路にあたる位置にあるからである。したがって、沖縄を含めた南九州の文化や習俗は九州北部の邪馬台国などの国とは異なることが想定できる。

 以前に、筆者は、人吉球磨地方の伝統芸能のルーツが鹿児島や沖縄などの南方にあることを あさぎり町中部ふるさと会の「ふるさと探訪、第29回~33回」や ふるさと関西会の「ヨケマン談義9・人吉球磨地方の伝承文化」で紹介した。
 本項で紹介するのは、「原」を「はる」とか「ばる」と呼ぶのは沖縄や九州だけであることの謎解明と、その九州南北での差についてである。

 文科省の学習指導要領によると、「原」という漢字は小学二年のとき、160字の漢字の一つとして学ぶことになっている。読み方は、訓読みでは「はら」、音読みでは「げん」である。ウイキペディアには、最近まで「岡原中学校」のフリガナを(おかはらちゅうがっこう)としてあったくらいだから、筆者は、岡原中学に入学したころ、「原」という漢字は、訓読みの「はら」としか知らず、「はる」と読む地名のあることなど、全く知らなかった。
 スポーツ用品店や市販の野球ユニホームなどはなく、母親が手作りのユニホームに羅紗(らしゃ)を切り抜いて作った「OKAHARA」のローマ字、これを縫い付けてもらい、仲間と一緒に担任の先生に見せに行くと、「OKAHARU」じゃないの?と言われた。そう言えば、筆者が生まれた岡原村も「おかはる」であり、隣の上村地区には「こうどんばる」があった。漢字では「神殿原」と書くことはずっと後で知ったことである。自宅の南には「くろばるやま(黒原山)」があり、西の「たかんばる(高原)」には、戦時中は人吉海軍航空基地があった。

 調べてみると、「原」の付く地名が「はる」とか「ばる」と呼ばれている場所は、人吉球磨地方では43箇所あり、熊本県では最も多い。それらの具体的地名が次である。筆者の調査もれのほか、合併や区画整理によって小字や小集落の地名が消えた可能性があり、実際はこれよりも多いはずである。

<球磨村>2か所・近江原(おうみはる)・遠原(とうばる
<山江村>3か所・蓑原(みのばる)・原谷(はるたに)・「せめん原谷(・・はるたに)」
<相良村>1か所・平原(ひらばる
<人吉市>2か所・土丈原(どじょうばる)・合ノ原(ごうのはる)町
<五木村>2か所・小原(こばる)・八原岳(やつはるだけ)
<錦町>12か所・高原(たかんばる)・東原(ひがしはる)・西原(にしはる)・中原
    (なかばる)・元忠ケ原(もとちゅうがはる)・上忠ケ原(かみちゅうがはる)・
     中忠ケ原(なかちゅうがはる)・下忠ケ原(しもちゅうがはる)・西下原(にししも
     ばる)・東下原(ひがししもばる)・無田の原(むたのはる)・血ケ原(ちがはる
<多良木町>9か所・茂原(もばる)・向原(むかいばる)・上ノ原(うえのはる)・獺野
     原(うそんばる)・中原(なかばる)・前原(まえばる)・小田原(おだばる)・
     湯原(ゆのはる)・永原谷(ながはるだに)
<あさぎり町>9か所・神殿原(こうどんばる)・善通原(ぜんつうばる)・諏訪ノ原(すわ
     のはる)・湯ノ原(ゆのはる)・黒原山(くろばるやま)・権原(ごんばる)・宮原
     谷(みやのはるだに)・ 岡原(おかはる)北 ・岡原(おかはる)南
<湯前町>1か所・くノ原(くノばる
<水上村>2か所・朴木原(ふうのきばる)・諏訪ノ原(すわのはる

 こうしてみると、原を「はる」とか「ばる」と呼ぶ地は、平野部や台地の多い錦町やあさぎり町及び多良木町に多いことがわかるが、これだけでも、「原」を「はる」と呼ぶ地と「ばる」と呼ぶ地がある。
 そこで本稿では、「原」を「はる」とか「ばる」と呼ぶ地を「原はるばる地」とし、「原」を「はら」とか「ばら」と呼ぶ地を「原はらばら地」とすることにする。そこで、沖縄を含めた九州における「原はるばる地」と「原はらばら地」を地図と郵便番号地名で調べてみた結果が図47である。

「はるばる地」と「はらばら地」
図47.  九州・沖縄の「原はるばる地」と「原はらばら地」

 「原」を「はる」とか「ばる」と呼ぶことは九州だけであるということは知っていたが、改めて隣接県である山口県、九州に近い四国愛媛県の南予地方や高知県の西部地域も調べてみた。その結果、「原はるばる地」は全くなかった。また、後述するが、「はる」の語源は韓国語の「パリ」からきているとの説もあるため、対馬海流沿いの島根県や鳥取県を調べてみたが、やはり「原はるばる地」は存在しなかった。

 図47で顕著なのは、沖縄県での○○原の地名は○○はるは極少で、○○ばるばかりである。「原はるばる地」が多く、縦軸を片対数グラフにでもしないと全数が収まらないのであるが、片対数グラフだと図上で量的割合を把握するのが難しいので通常グラフにした。そのため、沖縄県の原はるばる地名数は5000ヶ所以上なので、図からはみ出してしまうことになり、その数値は↑印で示した。
これは沖縄独特の小字名・原名(はるな)が入っているからである。例えば、那覇市の宇栄原(うえばる)地区、面積は約1km平方メートルであるが、ここには、高前原(たかめえばる)、親増原(おやましばる)、仲居座原(なかいざばる)、松川原(まつがわらばる)、久真安良原(くまあらばる)、津真原(つまばる)、我半田原(がはんたばる)、吹切原(ふつちりばる)、田原(たばる)、豆腐増原(とおふましばる)、佐安志原(さあしばる)、ハゲラー原(・・ばる)、仲添原(なかしばる)、慶良喜原(きらぎばる)、と14の原(ばる)の付く原名(はるな)がある。那覇市全体では96ヶ所もあるそうである。沖縄県におけるこれらの総数は、図47にも示したように約5012ヶ所である。

ハル石
図48. ハル石の例 国頭郡今帰仁村の「いれ原」  57cm高、23cm幅

 これら小字の境界目印として図48に示すような印部石(しるびいし)、別名、ハル石(はるいし)と呼ばれる石が置かれている。このハル石(印部石)は、1740年頃の琉球王府が検地測量して土地境界を決めた時の目印の石である。刻字がはっきりしているので、この図を選んだが、このハル石は沖縄県国頭郡(くにがみぐん)の今帰仁村(なきじんそん)にあるもので、「いれ原」「オ」と刻字されている。「いれ原(ばる)」は、ここが小分けされた開墾地の地名であり、その境界であることを示している。「オ」は、アイウエオのオで、石の順番記号である。琉球王府の検地が始まった当時は7500基ほどあったとされるが、明治後期の土地整理によって失われてしまい、現在は、沖縄県全体では約150基しか残っていないそうである。

 このように、はる・ばるの源は沖縄であることがわかるが、また後で補うことにして、図47をもう一度見てみよう。
図から、明らかなことの二つ目は、原をはるとかばると呼ぶのは佐賀県や長崎県など、朝鮮半島に近い九州北部の地域は少ないことである。
三つ目は、はるばるの割合である。沖縄県でのばる呼称の割合は90%以上であるが、どの県もばるの方が多く、「原ばる地」の原点は沖縄にあり、九州本土へ伝搬してきたことがわかる。

はるばる地
図49. 九州本土における「原はるばる地」の市町村別分布

 図49は、具体的「原はるばる地」と伝搬を知るため、九州本土の市町村別で表示したものである。密集地の分布は、宮崎県から鹿児島県のいわゆる北薩地方や人吉球磨地方及び、現在の大分と熊本を結ぶ豊肥線沿いの地域に集中している。長崎県や佐賀県にも集中箇所はあるが、前述のように九州北部には少なく、やはり、伝搬ルートは南方の沖縄であることが、この図からもわかる。沖縄と鹿児島の途中にある奄美諸島の「原はらばら地」は3ヶ所あるが、「原はるばる地」は2ヶ所だけである。沖縄県でもそうであるが、「原はるばる」は島嶼部(とうしょぶ)では少ない。これは耕して田畑にする平地が少ないためであり、熊本県でも島の多い天草地方は県下でも最低である。

               
<つづく>  
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